「もっと、面白くできないか?」

――手塚治虫と「つくり出す力」――

「鉄腕アトム」「ジャングル大帝」「リボンの騎士」「ブラック・ジャック」「火の鳥」。これらの名前を、一度は耳にしたことがある人も多いでしょう。手塚治虫は、日本の漫画とアニメーションの表現に大きな影響を与え、現在につながるストーリー漫画やテレビアニメの発展に大きな足跡を残した人物です。

では、手塚治虫は最初から「漫画の神様」と呼ばれ、何でも思い通りに生み出すことのできる天才だったのでしょうか。もちろん、そんなことはありません。

子どものころから絵を描くことが好きでしたが、漫画だけに夢中になっていたわけでもありませんでした。昆虫を観察し、映画を見て、宝塚歌劇に親しみ、本を読み、さらに大学で医学まで学びました。

一見すると、これらはまったく別々のものに見えます。しかし手塚治虫は、それらを自分の中で見事につなげていったのです。

映画から受けた刺激を漫画の表現に取り入れ、医学の知識を作品に生かし、漫画で描いていた物語を今度はアニメーションとして動かしてみる。

つまり手塚治虫は、ただ「好きなことを続けた人」ではありません。好きなものを入り口にして、いろいろなことを学び、それらを組み合わせて新しいものをつくった人なのです。

その人生には、「もっと面白くできないか?」と考え続ける力がありました。


1.少年時代――「好き」が世界を広げていった

手塚治虫は1928年、大阪府豊中市に生まれ、5歳のときに兵庫県の宝塚へ引っ越しました。

少年時代の手塚が夢中になったものの一つが、昆虫でした。昆虫を採集し、観察し、その姿を精密に絵に描く。

そして1939年、11歳のころには、自分の名前「治」に「虫」という字をつけ、「手塚治虫」というペンネームを使い始めました。

今では誰もが知っている「手塚治虫」という名前は、一人の少年が大好きだった昆虫から生まれたのです。

しかし、手塚の興味は昆虫だけにとどまりませんでした。映画を見たり、本を読んだり、宝塚歌劇に親しんだり、さまざまなものから刺激を受けました。

ここに、手塚治虫の大きな特徴があります。

「漫画家になりたいから、漫画だけを勉強する」のではないのです。

面白いと思ったものは、どんどん見てみる、知ってみる。そのときには、何の役に立つのか分からないこともあります。

けれど、学んだことは消えてなくなるわけではありません。

別々に見えた知識が、いつか思いがけないところでつながることがあります。

手塚治虫は、そのことを自分の作品で証明していくことになります。


2.戦争体験――「命とは何か」を考える

手塚治虫が16歳だった1945年、日本は戦争のさなかにありました。

手塚も学生勤労動員によって大阪の軍需工場で働き、そこで大阪大空襲を経験しています。

戦争によって、多くの人の命が失われました。手塚自身も、いつ命を失うか分からないような壮絶な状況を経験しました。

この戦争体験は、その後の手塚治虫の作品に決定的な影響を与えました。

「人間にとって、命とは何なのか」
「科学は人間を幸せにするものなのか」
「人間はなぜ争うのか」

科学技術によってできることが増えていけば、それだけで人間は幸せになれるのだろうか――こうした問いは、後の手塚作品のさまざまな場面に繰り返し登場します。

たとえば『鉄腕アトム』も、単純に「科学の力はすごい」と賛美する物語ではありません。公式資料でも、アトムには「科学と人間は本当に共存できるのだろうか」という手塚治虫の深い問題意識が込められていたと説明されています。

つまり手塚にとって漫画は、ただ面白い物語を描くだけのものではありませんでした。

自分が見たこと、感じたこと、悩み抜いたことを、物語という形に変えて人々に届ける方法でもあったのです。


3.映画を漫画にする――「別の分野」から表現を学ぶ

戦争が終わると、手塚治虫は本格的に漫画家として活動を始めます。

1946年には「マアチャンの日記帳」でデビューし、翌1947年には酒井七馬の原作をもとにした『新寶島』が刊行されました。

このころの手塚が強く影響を受けていたものの一つが、映画でした。

映画では、カメラが人物の顔に近づいたり遠ざかったりします。大きな画面で表情を見せたかと思えば、次の瞬間には広い場所を映し出す。

場面が切り替わり、見る人の視線が動いていく。

手塚は、こうした映画的な表現から大きな刺激を受け、それを漫画のコマの中に果敢に取り入れていきました。

コマの大きさを変える、人物を大きくアップで描く、場面の切り替えを工夫する、スピード感のある動きを絵の組み合わせで感じさせる。

それまでの漫画の表現をそのまま使うのではなく、

「映画のような見せ方を、漫画でやったらどうなるだろう?」

と考えたのです。

これは、手塚治虫の創造の仕方をよく表しています。

新しいものは、何もないところから突然生まれるとは限りません。

すでにあるものをよく観察し、別の分野から学び、それを組み合わせる。

そこから、今までになかった革新的な表現が生まれることがあるのです。


4.医学を漫画に生かす――「点」が「線」になる

手塚治虫の人生で、もう一つ驚かされるのが医学との関わりです。

手塚は漫画家として多忙な日々を送る一方で医学を学び、大阪大学医学専門部に進みました。そして1961年には、正式に医学博士の学位を取得しています。

「超人気漫画家なのに、なぜそこまでして医学を学ぶのだろう?」

と不思議に思う人もいるかもしれません。

しかし手塚治虫にとって、医学を学んだことは決して無駄にはなりませんでした。

その膨大な知識と体験は、後の作品に見事に生かされることになります。

その代表作が、天才外科医を主人公にした『ブラック・ジャック』です。

もちろん漫画ですから、医学的な描写のすべてが現実そのままというわけではありません。それでも、医学を専門的に学んだ手塚だからこそ描ける、病気や手術の生々しさ、そして人間の命の尊厳についての深い物語がありました。

ここで、少年時代の手塚を思い出してみてください。

昆虫が好きだったこと。
映画が好きだったこと。
本を読んだこと。
そして医学を学んだこと。

その一つ一つは、学んでいる瞬間には別々の経験だったかもしれません。

しかし後になって、それらが作品の中で見事に一本の線となってつながっていきました。

学んでいるときには「点」にしか見えなかったものが、後になって「線」になる。

これこそが、学ぶことの本当の面白さです。


5.漫画を動かす――「できない」から工夫が生まれる

漫画家として大きな成功を収めても、手塚治虫の「もっと面白くしたい」という情熱が冷めることはありませんでした。

今度は、

「紙の上の漫画を動かしてみよう」

と挑戦します。

1961年、手塚はアニメーション制作のための動画部を設立し、翌1962年には株式会社虫プロダクションとして正式に発足させました。

そして1963年1月1日、『鉄腕アトム』のテレビ放送が始まります。

これは日本で最初の長編テレビ用連続アニメシリーズとなりました。

1966年までに193本が制作され、最高視聴率は40.3%を記録、さらにアメリカでは「ASTRO BOY」のタイトルで放送され、世界中へと広がっていきました。

今では毎週テレビや配信でアニメを見ることは当たり前ですが、当時、毎週30分のアニメを作り続けることは途方もない難工事でした。

すべての場面を滑らかに動かそうとすれば、時間も人手も費用もパンクしてしまいます。

そこで虫プロでは、動きを限定したり、同じ絵を効果的に繰り返し使ったり、カメラワークや音を活用したりするなど、限られた条件の中で高品質なテレビアニメを成立させるためのさまざまな工夫が生み出されました。

ここで大切なのは、

「全部できないから諦める」

のではなく、

「全部動かせないなら、どうすれば面白くできる?」

と考え抜いたことです。

条件が厳しいからこそ、方法を変える。

これは、彼が漫画で行ってきた工夫とまったく同じでした。

「今ある方法で無理なら、別の方法を考えてみよう」。

その柔軟な発想が、漫画からアニメーションという新たな表現の扉を開いたのです。


6.虫プロの倒産――それでも「つくる力」は失われなかった

もちろん、手塚治虫の人生は華やかな成功ばかりではありませんでした。

情熱を注ぎ込んだ虫プロダクションは、アニメーション制作を続ける中で深刻な経営難に陥り、1973年11月、ついに倒産してしまいます。

自分自身がつくった理想の城が、消えてなくなったのです。

しかし、手塚治虫自身の創作への情熱までが消えたわけではありませんでした。

むしろその過酷な年に、彼は新しい代表作を生み出します。

1973年、手塚は『ブラック・ジャック』の連載を開始しました。

もともとは5回程度の短期連載の予定でしたが、作品は読者の絶大な支持を集め、後に長く読み継がれる不朽の名作となりました。

ここで大切なのは、

「倒産したけれど、すぐに大成功して劇的に復活した」

という単純なサクセスストーリーではありません。

会社経営と作品づくりは別のことです。

会社は失敗してしまったけれど、自分の中にはこれまで学んできたこと、考えてきたこと、描いてきた技術がしっかりと残っている。

だからこそ、それらを使って再び新しい作品を立ち上げることができたのです。

自分が真剣に積み重ねてきた学びや経験は、どんな困難にあっても決して奪われることはない。

これは、手塚治虫の挫折と復活から学べる極めて重要な教訓です。


7.「好き」をつなぐ――学びはいつか武器になる

手塚治虫の人生を見つめていると、「好き」という言葉の持つ意味が少し違って見えてきます。

昆虫が好きだった。
映画が好きだった。
漫画が好きだった。
医学を学んだ。
アニメーションをつくりたかった。

彼はそれらを決して別々の棚にしまい込まず、お互いをつなぎ合わせていきました。

虫の観察から得た探究心。
映画から学んだ空間演出。
医学から得た命への知識。
漫画家として培ったストーリーテリング。
そしてアニメ制作で磨かれたアイデアの工夫。

それらが彼の中で見事に融合したからこそ、手塚治虫にしかつくれない唯一無二の作品が生まれたのです。

これは、私たちの日々の勉強や生活にもそのまま当てはまります。

「数学なんて将来何に使うの?」
「理科を覚えて何の役に立つの?」
「歴史なんて自分には関係ない」

と疑問に思うこともあるでしょう。

しかし、学んだことの価値は、覚えたその瞬間に役に立つかどうかだけでは決まりません。

今日覚えた知識と、来年出会う出来事。
学校で学んだことと、自分の趣味。
本で読んだことと、日常で見た風景。

それらがある日、思いがけない場所で結びつくことがあります。

そして、その「つながり」からこそ、あなただけのオリジナルのアイデアが飛び出してくるのです。


8.今日からできること――「もっと面白くできないか?」と考える

では、私たちは今日から何ができるでしょうか。

まず、自分の「好き」を大切にすることから始めてみましょう。

ただし、「好きだから、それだけをやっていればいい」ということではありません。

好きなものを入り口にして、ほんの少しだけ外の世界へ好奇心を広げてみるのです。

ゲームが好きなら、その音楽や背景となる歴史、プログラミングの仕組みに触れてみる。

スポーツが好きなら、筋肉の仕組みや栄養学、心のコントロールについて調べてみる。

絵が好きなら、光と影の物理、建物の構造、写真の構図について学んでみる。

生き物が好きなら、生物学だけでなく環境問題や地理、科学技術にも目を向けてみる。

すると、今までバラバラだった知識が、ある日突然カチリとつながる瞬間が訪れます。

そしてもう一歩進んで、

「これとあれを組み合わせたら、もっと面白くならないかな?」

と自分に問いかけてみてください。

すぐに素晴らしい答えが出なくても構いません。

実際につくってみて、うまくいかなければ形を変えてみる。

やってみて面白くなかったら、また別の組み合わせを試してみる。

新しいものをつくるとは、最初から完璧な正解を知っていることではありません。

考えて、試して、つなげて、また考える。

その泥臭い繰り返しの先にしか、新しい形は生まれないのです。


9.これまでの偉人たちとつながる「つくり出す力」

これまで、このシリーズではさまざまな偉人たちの「可能性のひらき方」を見てきました。

ライト兄弟は失敗を「データ」に変え、本田宗一郎は好きなことから学んで失敗を「工夫」につなげました。

山中伸弥は「できない」を「まだできない」と捉え直し、ジェームズ・ダイソンは当たり前を疑って何度も方法を変えました。

ジョルジュ・ド・メストラルは身近な観察から「なぜ?」を発見し、ヘレン・ケラーとアン・サリバンは「どうすれば伝わるか」を探し続けました。

ウォルト・ディズニーは試練のたびに「次に何をつくる?」と考え、葛飾北斎は「まだ、うまくなれる」と学び続け、マイケル・ジョーダンは「負けたあと、どうする?」と自分を刷新し続けました。

そして手塚治虫が教えてくれるのは、

「もっと、面白くできないか?」と考えながら、異なる世界をつなぎ合わせて新しい価値を生み出す力

です。


10.未来をつくるのは、「小さな問い」

手塚治虫は、漫画と映画をつなぎ、医学と物語をつなぎ、漫画とアニメーションをつなぎました。

だからこそ、それまで世界になかった新しい表現を生み出し、日本の文化を大きく広げていくことができたのです。

私たちの身の回りにも、「好き」や「気になること」の種が必ずあります。

今はそれが何の役に立つのか分からなくても構いません。

そこで立ち止まらず、もっと深く知ってみる、別のことと比べてみる、違う分野とつなげてみる、そして実際につくってみる。

今日学んだことと、明日出会う何かが結びついたとき、思いがけない未来の扉が開きます。

新しいものを生み出すのは、特別な天才だけではありません。

「これとあれを組み合わせたら、どうなるだろう?」

と想像すること。

そして、

「もっと、面白くできないか?」

と繰り返し問いかけること。

その小さな問いの積み重ねこそが、まだ誰も見たことのない、あなただけの素晴らしい世界を創り出す確かな力になっていくのです。