「まだ、うまくなれる。」

――葛飾北斎と「学び続ける力」――

みなさんは、葛飾北斎という名前を聞いたことがありますか。世界で最も有名な日本の絵の一つ、「富嶽三十六景」。その中でも、巨大な波が今にも船をのみ込みそうになっている「神奈川沖浪裏」や、赤く染まる富士山を描いた「凱風快晴(赤富士)」は、きっと一度は教科書やニュースなどで目にしたことがあるでしょう。今では世界中の芸術家にも影響を与えたこれらの名作ですが、北斎がこれらを描いたのは何歳くらいだったと思いますか。20代でしょうか。それとも、脂の乗った30代でしょうか。 実は、どちらも違います。北斎が「神奈川沖浪裏」を描いたのは、70歳を過ぎてからのことでした。 北斎は1760年に生まれ、90歳で亡くなるまで、約70年間にわたって絵を描き続けました。そして、その長い画家人生の後半になってから、私たちがよく知る歴史的な名作を次々と生み出したのです。しかも北斎は、世界的な評価を得てもなお、「これで十分だ」とは考えませんでした。むしろ、自分にはまだまだ学ぶことがあると考え、亡くなる直前まで絵を描き続けました。 これは、単に「絵を描くのが好きだったおじいさん」の話ではありません。「できたと思った後も、そこからさらに学び続ける」という、そんな北斎の、少し変わっていて、しかし驚くほどまっすぐな生き方の物語です。

絵が好きだった少年と、変わり続けた名前

葛飾北斎は、江戸の本所(現在の東京都墨田区)のあたりで生まれました。幼いころから絵を描くことに興味を持ち、少年時代には木版画の彫り師のもとで働いたとされています。そして19歳ごろ、当時の人気浮世絵師・勝川春章に弟子入りしました。ここから、北斎の長い画家人生が始まります。 ところが、今の私たちが知っている「北斎」という名前は、最初から使っていたものではありませんでした。北斎は生涯の中で、何度も名前を変えています。「春朗」「宗理」「北斎」「戴斗」「為一」など、さまざまな画号を使いました。 名前を変えるだけではありません。描くものも変わりました。人物、役者、美人、風景、動物、植物、妖怪、物語の挿絵など、本当にさまざまなものを描いています。しかも、北斎は一つの流派だけにとどまりませんでした。師匠から学んだ浮世絵だけでなく、西洋の遠近法や中国の画法など、さまざまな表現に関心を持ち、自分の絵に取り入れようとしたのです。 つまり北斎は、「自分はこの描き方でいく」と早い段階で決めてしまった人ではありませんでした。「学んで、試して、変える」。その繰り返しこそが、北斎の人生そのものになっていきました。

師匠のもとを離れてでも、学びたかった

北斎の「変わり続ける姿勢」は、若いころから表れていました。勝川春章の弟子として学んでいた北斎は、やがて勝川派とは異なる画風にも興味を持つようになります。自分が学んできたものだけではなく、別の流派の絵や西洋の絵にも目を向けました。 しかし、それは師匠から見ると好ましいことではありませんでした。結果として、北斎は勝川派を離れることになります。もちろん、これは「師匠に逆らったから偉い」という話ではありません。大切なのは、北斎が「今まで教わったことだけで十分」とは考えなかったことです。 知らないものを見れば、もっと知りたくなる。違う描き方を見れば、自分でも試してみたくなる。それが、ときにはこれまでの恵まれた環境を離れることにつながったとしても、北斎は新しい表現を探し続けました。学ぶということは、ただ教えてもらったことを覚えるだけではありません。「もっと知りたい」と思ったところから、自分で次の学びを探すことでもあるのです。北斎の若いころの生き方には、その姿がすでに表れています。

93回の引っ越しと「画狂老人卍」

北斎には、少し変わった逸話もたくさん残っています。その代表が、引っ越しの多さです。北斎は生涯に何十回も住む場所を変え、実に93回も引っ越したという逸話も残っています。絵を描くことに夢中になるあまり、部屋の掃除や片づけを後回しにし、部屋がゴミや足の踏み場もないほど散らかると、別の家へそのまま移ったという話まであります。 もちろん、これは「部屋を掃除しなくてもいい」という話ではありません。むしろ、北斎という人が一般的な「落ち着いた芸術家」というイメージとはかなり違っていたことが分かります。北斎は、生活を整えて静かな毎日を送ることよりも、絵を描くことに強く心を引かれていた人物だったのです。 そして70代後半になると、北斎は「画狂老人卍(がきょうろうじんまんじ)」という名前を使うようになります。「絵に狂った老人」という意味です。かなり大胆な名前ですが、この名前からも、「自分はもう十分な画家になった」と誇るのではなく、死ぬまで絵を極めたいという強い執念を感じることができます。

「富嶽三十六景」は、70歳を過ぎてから

北斎の代表作である「富嶽三十六景」。このシリーズでは、富士山がさまざまな場所、さまざまな季節や天候の中で描かれています。その中に、世界的に知られる「神奈川沖浪裏」があります。 巨大な波。その向こうに見える小さな富士山。波に翻弄される船。初めて見る人は、まず「大きな波の迫力」に目を奪われるでしょう。でも、よく見ると、波のしぶきの形、船の配置、富士山の大きさ、空間の遠近などが非常に計算されています。 この作品を北斎が描いたのは、70歳を過ぎてからです。ここが、今回いちばん覚えておいてほしいところです。北斎は、若いころにすべての才能を出し切ったわけではありません。70歳を過ぎてから、歴史的な代表作を生み出したのです。 長い年月をかけて、人や動物を描き、植物を描き、風景を描き、さまざまな表現を学んできた。その圧倒的な積み重ねがあったからこそ、あの波の絵につながっていきました。もし北斎が、「もう年だから、新しいことを始めるのは無理だ」と考えていたら、私たちが知る名作はこの世に存在しなかったのです。

「73歳で、ようやく分かってきた」

北斎の考え方を知るうえで、とても重要な文章が残っています。北斎が75歳のころに出版した『富嶽百景』という本の中で、彼は自分の絵の人生を振り返り、こう書いています。 「私は6歳から物の形を写す癖があった。50歳から数々の絵を発表してきたが、70歳までに描いたものは、どれも取るに足らないくだらないものばかりだ。73歳になって、ようやく生き物や植物の本当の骨格や生まれ立ちについて、少し分かってきた。」 考えてみてください。世界的な名声を得ていた70歳過ぎの巨匠が、「73歳になって、ようやく少し分かってきた」と言っているのです。 私たちは、勉強で何かが解けるようになると、「分かった!」と思って満足します。それはもちろん素晴らしいことです。でも、北斎にとって「分かった」は終わりではありませんでした。「分かってきた。だから、もっと先を知りたい」。そんな飽くなき探求心だったのです。

80歳になったら? 90歳になったら?

北斎は、そこで終わりません。『富嶽百景』の中で彼はこう続けます。「80歳になればさらに上達し、90歳になれば絵の奥深いところまで分かり、100歳になれば神のような領域に達するだろう。110歳になれば、点一つ、線一本が生きているようになるはずだ。」 もちろん、北斎は100歳にも110歳にもなれませんでした。90歳で亡くなっています。臨終の際にも、「天があと5年命をくれたなら、本当の画家になれたのに」と言い残したと伝えられています。 ここで大切なのは、年齢の数字ではありません。北斎は、自分の成長に「ここまで」という終わりを決めていなかったということです。すでに有名な画家になっていても、「まだ上手くなれる」。70歳を過ぎて名作を描いても、「まだ先がある」。90歳になっても、「もっと描きたい」。そんな圧倒的な熱量を持ち続けていました。

北斎は「天才」だったのか

北斎は、もちろん非常に優れた画家でした。しかし、「北斎は天才だった」で終わらせてしまうと、彼の本当のすごさを見落としてしまいます。 北斎は、19歳ごろから絵を学び始めました。そこから70年近く、描き続けました。師匠から学び、別の流派にも目を向け、西洋の表現にも関心を持ち、さまざまなものを描きました。そして、何度も自分の描き方を変えました。 つまり、「描く、学ぶ、試す、失敗する、変える、また描く」。その泥臭い反復を何十年も続けたのです。 私たちが「天才」と呼んでいる人の中にも、最初から完成していた人などいません。才能があったとしても、それを使い、学び、磨き続けなければ、大きな力にはなりません。北斎のすごさは、才能そのものよりも、「自分はまだ学べる」と思い続けた姿勢にあるのではないでしょうか。

「今の自分」は、まだ途中

これは、学校の勉強や部活動でも同じです。テストで良い点数が取れた。数学の問題が解けるようになった。英単語を覚えた。部活動で新しい技ができるようになった。それは、とても素晴らしいことです。 でも、「できた!」で終わらせなくてもいいのです。

  • 「もっと速く、正確にできないかな。」
  • 「別の方法でも解けるかな。」
  • 「もっと分かりやすく説明できるかな。」
  • 「次は、もう少し難しいことに挑戦してみようかな。」

そう考えてみる。反対に、今できないことがあっても、「自分には才能がない」と決めつける必要はありません。「今できない」と「一生できない」は、同じではないからです。 今の勉強方法ではうまくいかないなら、方法を変えてみる。分からなければ、人に聞いてみる。別の問題を解いてみる。図にしてみる。もう一度やってみる。そうやって、自分の「まだできない」を一つずつ「できる」に変えていけばいいのです。

今日からできる「もう一歩」

北斎のように、70年も一つのことを続けるのは簡単ではありません。でも、北斎の「まだ、うまくなれる」という考え方なら、今日からでも取り入れることができます。 今日、勉強や部活動で何か一つ「できたこと」があったら、そこで終わらず、ノートの端に次の一行を書いてみてください。 「できた! じゃあ、次はどこをもっと工夫してみよう?」 たった一つの問いで構いません。「できた」で終わらず、「次は?」と考える。それだけで、同じ勉強でも、少し違った未来が見えてくるはずです。

「まだ、うまくなれる。」

これまで、このシリーズでは、さまざまな偉人たちの「可能性のひらき方」を見てきました。

  • ライト兄弟は、失敗を「データ」に変えて、次の挑戦につなげました。
  • 本田宗一郎は、失敗から「工夫」を生み出し、挑戦を続けました。
  • 山中伸弥は、「できない」を「まだできない」と考え、方法を変えました。
  • ジェームズ・ダイソンは、当たり前を疑い、何度も試しました。
  • ジョルジュ・ド・メストラルは、身近な出来事から「なぜ?」を見つけました。
  • ヘレン・ケラーとアン・サリバンは、「どうすれば伝わる?」「どうすれば学べる?」を一緒に探しました。
  • ウォルト・ディズニーは、うまくいかなかったとき、「次に何をつくる?」と考えました。
  • そして、葛飾北斎は、「まだ、うまくなれる。」と考え続けました。

北斎は90歳で亡くなりました。でも、北斎自身は、最後まで「完成した」とは思っていなかったのかもしれません。 私たちは、まだまだこれからです。今できないことがあっても、それはあなたの限界ではありません。今できるようになったことがあっても、それで終わりではありません。昨日より少しできるようになったら、次はもう少し。その「もう一歩」を繰り返していけばいいのです。 そして、何かができるようになったとき、自分にこう聞いてみてください。 「じゃあ、次は何ができるだろう?」 北斎が90年近い人生をかけて続けたのも、そんな問いだったのかもしれません。 「まだ、うまくなれる。」 そう思える限り、人は何歳になっても、昨日の自分を超えていけるのです。