「学びたい」と思ったときが、始めるとき。

――伊能忠敬と「学び直す力」――

 もし、あなたが五十歳になったとしたら、何をしているでしょうか。仕事に追われている人もいれば、家族との時間を大切にしている人もいるでしょう。けれど、「今からまったく新しい勉強を本格的に始めよう」と考える人は、それほど多くないかもしれません。

 ところが、江戸時代に生きた伊能忠敬は、五十歳で江戸に出て、本格的に天文学や暦学を学び始めました。そして五十五歳になると、日本各地を実際に測量する旅に出ます。その測量事業は一度で終わったわけではありません。1800年から1816年までの足かけ17年間に、十次にわたって日本各地を測量し、北海道から九州までの膨大なデータを集めました。その成果は、やがて日本全国の実測による精密な地図へとつながっていきます。

 「勉強を始めるのに、遅すぎることはない。」

 伊能忠敬は、この言葉をただの理想論として語ったのではありません。五十歳から学び、学んだことを実際に使い、十七年にもわたって測量を続けるという、自らの行動によって示したのです。

■若いころから、ずっと地図を作っていたわけではない

 伊能忠敬は1745年、現在の千葉県九十九里町で生まれました。17歳のとき、佐原の伊能家に婿養子として入り、酒造業などの家業を支えました。また、名主や村方後見として地域の仕事にも携わり、商人としてだけでなく、地域を支える立場としても活動しました。

 忠敬は、若いころから地図だけを研究していた特別な学者ではありません。家業を営み、地域の仕事を担いながら、やがて天文学や暦学への関心を深めていきました。

 そして49歳のとき、家督を長男の景敬に譲って隠居します。翌年の50歳、忠敬は江戸へ出ました。

 ここから、忠敬の人生は大きく動き始めます。

 それまでの人生で身につけてきた商売や地域での経験を手放したわけではありません。しかし、これからは自分が本当に学びたいと思っていたことに、時間を使うことを決めたのです。

■五十歳で、年下の先生の門をたたく

 50歳になった忠敬が江戸で師事したのが、高橋至時という天文学者でした。

 至時は1764年生まれで、1745年生まれの忠敬より19歳年下です。公的な資料では「20歳も若い先生」と紹介されることもあります。

 普通に考えれば、「五十歳の大人が、自分よりずっと若い先生から本格的に学ぶ」ということには、年齢やこれまでの経験が邪魔をすることもあるでしょう。

 しかし、忠敬はそうしませんでした。

 自分が知らないことを知っている人がいるなら、その人から学ぶ。必要な知識を身につける。天文学や暦学、測量の方法を学び、観測や計算についても理解を深めていく。

 ここで大切なのは、「五十歳なのに勉強を始めた」ということだけではありません。

 忠敬は、自分が知らないことを「恥ずかしいこと」ではなく、「これから学べること」として受け入れたのです。

 知らないことがあるからこそ、学ぶ意味があります。

 忠敬にとって五十歳とは、人生の終わりに向かう年齢ではなく、まだ知らない世界へ踏み出すための、新しい学びのスタート地点でした。

■「地球の大きさを知りたい」――学問が測量へつながる

 忠敬が高橋至時のもとで学んでいたころ、天文学には重要な問題がありました。当時の暦学では、日食や月食などの天体現象を正確に予測するためにも、地球の大きさを知ることが重要だったのです。

 そのためには、地球上の二つの地点について、緯度の差と実際の距離を正確に測り、緯度1度に相当する距離を求める必要がありました。北極星などの高度を観測すれば、その場所の緯度を知ることができます。そして、二つの地点の緯度の違いと、その間の距離が分かれば、地球の大きさを計算できるのです。

 つまり、忠敬が最初から「日本全国の完璧な地図を作ろう」という巨大な計画を立てていたわけではありません。

 まず、学問上の疑問がありました。

 その疑問を確かめるためには、実際の土地の距離を測る必要がある。

 そして、より正確な結果を得るには、もっと遠い場所まで測る必要がある。

 こうして、机の上で学んでいた天文学が、実際の土地を測るという行動へとつながっていきました。

 さらに当時、蝦夷地、現在の北海道の周辺にはロシア船がたびたび姿を見せ、幕府は国防のためにも正確な地図を必要としていました。そこで高橋至時は、蝦夷地までの測量と地図作りを幕府に願い出ました。地図を作りながら各地の緯度を測り、地球の大きさを確かめようとしたのです。忠敬は、その測量を担当する人物として推薦されました。

 「知りたい」という学問上の問いが、社会に必要とされる仕事へとつながったのです。

■五十五歳から始まった、地球一周分の「確かめる旅」

 1800年、55歳になった忠敬は、第1次測量として奥州街道を北上し、蝦夷地へ向かいました。これが、日本全国を実測する長い旅の始まりでした。

 その後も測量は続き、1801年の第2次、1802年の第3次、1803年の第4次と、次々に範囲を広げていきました。さらに東海・北陸、近畿・中国、四国、九州などへと進み、1800年から1816年まで、足かけ17年間にわたって十次の測量が行われました。

 ただし、ここで一つ注意しなければなりません。

 第9次測量の伊豆七島の測量には、忠敬本人は参加していません。したがって、「忠敬が十回すべてを自分で歩いた」というわけではありません。正確には、忠敬を中心とする測量事業が十次にわたって行われたのです。

 現代のようなGPSも衛星写真もありません。

 測量隊は、海岸や街道を進みながら、二つの地点の距離や方位を測りました。山の頂上や沖の島など、遠くから見える目標物の方位も記録します。そして夜には、望遠鏡を使って北極星の高度を測り、緯度を確かめました。

 測量隊が歩いた距離は、約4万キロメートル。地球一周分にほぼ相当する距離です。

 国土地理院が説明するように、伊能図の大きな特徴は、距離と方位を測る導線法、遠くの目標物の位置関係を利用する方法、そして天文測量などを組み合わせて、正確な地図を作っていったことにあります。

 ここに、忠敬の学び方の神髄があります。

 「分かったつもり」で終わらせず、自分で測り、確かめる。

 学んだ知識を机の上だけで終わらせず、現実の世界で使ってみる。そして、そこで得た結果を次の学びへつなげる。

 これは、勉強にもそのまま当てはまります。

■途中で認められた仕事、そして大きくなっていった測量

 伊能忠敬の測量は、最初から幕府の巨大な事業だったわけではありません。

 当初は個人の事業として始まりましたが、測量が進むにつれて、その成果が幕府にも認められていきました。1804年には、それまでの測量成果をまとめた日本東半部の沿海地図が幕府に提出され、将軍徳川家斉の上覧を受けています。その後、忠敬は幕府の仕事にも関わるようになり、測量事業の多くが幕府の事業として行われるようになりました。

 これは、忠敬の学びが「自分の趣味」で終わらなかったことを示しています。

 自分が知りたいと思って始めた学びが、正確な地図を必要としていた社会と結びつき、やがて多くの人が関わる仕事へと広がっていったのです。

■未完成のまま逝った忠敬と、志を受け継いだ人々

 伊能忠敬の話で、決して忘れてはならないことがあります。

 あの「伊能図」は、忠敬一人だけの力で完成したわけではありません。

 測量の現場には多くの人が関わりました。また、江戸では高橋至時や、その後を継いだ高橋景保など、学問や地図作成を支えた人々がいました。忠敬が測量したデータを整理し、地図としてまとめる作業にも、多くの人の力が必要でした。

 そして1818年、忠敬は73歳で亡くなります。

 しかし、そのとき地図はまだ完成していませんでした。

 ここで物語は終わりません。

 忠敬の死後も、残された人々は作業を続けました。香取市の資料によれば、忠敬の死は正式には公表されないまま、弟子たちが地図の完成に向けた作業を続け、3年後の1821年、「大日本沿海輿地全図」として完成させ、幕府に提出しました。

 完成した地図は、大図214枚、中図8枚、小図3枚、合わせて225枚にも及びます。

 つまり、忠敬が最後まで一人で完成させたのではありません。

 自分が集めたデータを、次の人たちが受け継ぎ、整理し、形にしていったのです。

 大きな仕事とは、一人の人間が一瞬で完成させるものとは限りません。

 自分が積み重ねたものを誰かが受け継ぎ、次の一歩につなげることもあります。

■「もう遅い」は、本当に遅いのだろうか

 伊能忠敬の人生を知ると、「自分にはもう遅い」「どうせ無理だ」と思っていたことが、少し違って見えてきます。

 もちろん、誰もが忠敬と同じような仕事を成し遂げられるわけではありません。年齢によって体力や環境が変わることもあります。それでも忠敬は、五十歳から必要な知識を学び、測量の方法を身につけ、実際の土地を歩き続けました。

 だから私たちが学ぶべきなのは、「若さ」や「才能」を無視することではありません。

 むしろ、

 「今の自分には無理だ」と諦める前に、「では、何を学べば少しでも近づけるだろう」と考える姿勢です。

 数学が苦手なら、分からなくなったところまで戻って学び直せばいい。英語が苦手なら、今日知らなかった単語を一つ覚えてみればいい。理科が難しいなら、教科書や図を見直し、実験で何が起きているのかをもう一度確かめればいい。

 今できないことと、これからもできないことは、同じではありません。

 「まだ分からない」という言葉には、「これから分かるようになる可能性」が残されています。

■学ぶことは、自分の世界を広げること

 伊能忠敬は、50歳で本格的に学び始めました。

 そして、学んだことを実際に使い、測り、記録し、また確かめました。

 その結果、学問上の問題として始まった「緯度1度の長さを知りたい」という問いは、やがて日本全国を測量するという大きな仕事へと広がっていきました。

 ここに、勉強の本当の面白さがあります。

 最初から「歴史に残るような大計画」を持つ必要はありません。

 「これを知りたい」という小さな疑問から始めればいいのです。

 数学を勉強すれば、今まで解けなかった問題の筋道が見えるようになる。理科を学べば、いつもの散歩道で見かける自然現象が違って見える。歴史を学べば、今の社会がどうしてこうなっているのかを考えられる。国語を学べば、誰かが書いた文章や話した言葉の奥にある考えを読み取れるようになる。

 学ぶということは、単にテストの点数を上げたり、順位を競ったりするためだけのものではありません。

 知らなかったことを知ることで、自分が見られる世界を少しずつ広げていくことなのです。

■「学びたい」は、行動に変えられる

 これまで、このシリーズでは、さまざまな人物の生き方から「考える力」を学んできました。

 ジョルジュ・ド・メストラルは、身近な日常から「なぜ?」という疑問を見つけました。

 ガリレオ・ガリレイは、「本当にそうだろうか?」と考え、観察や測定によって確かめようとしました。

 アンリ・ファーブルは、一度見ただけで分かったつもりにならず、足もとの昆虫をじっくり観察し続けました。

 そして伊能忠敬は、「知りたい」と思ったことを、自ら学び、実際の世界で確かめるところまで進みました。

 疑問を持つ。

 確かめる。

 観察する。

 学ぶ。

 そして、行動する。

 こうして振り返ってみると、勉強とは「誰かに教えてもらうもの」だけではありません。

 自分の中に生まれた「知りたい」という小さな気持ちを、自分自身の行動によって育てていくことでもあるのです。

■今日の自分から、始めればいい

 もし今、「自分は勉強が苦手だ」と思っているなら、「自分は頭が悪い人間だ」と決めつける必要はありません。

 「まだ分からないだけだ」と考えてみてください。

 もし「勉強しても成果が出ない」と悩んでいるなら、「自分には才能がない」と諦める前に、「どこでつまずいているのだろう」と、自分の学びを振り返ってみてください。

 そして、今日一つだけ学び直してみる。

 一問だけ解き直してみる。

 一つだけ分からなかった言葉を辞書で調べてみる。

 それは、伊能忠敬が歩いた約4万キロメートルに比べれば、本当に小さな一歩かもしれません。

 しかし、どんなに長い旅であっても、一歩ずつ進まなければ目的地には近づきません。

 伊能忠敬も、最初から完成した日本地図を知っていたわけではありません。

 目の前の「知りたい」を追いかけ、必要なことを学び、学んだことを使って確かめる。

 その積み重ねが、やがて大きな仕事につながったのです。

 だから、今の自分を見て、「自分はここまでだ」と限界を決めないでください。

 できないことがあるなら、そこから学べばいい。

 知らないことがあるなら、今ここから始めればいい。

 「学びたい」と思ったその瞬間こそ、新しい自分へ向かうスタート地点なのです。

 学び始めるのに、遅すぎるということはありません。

 伊能忠敬が歩いた日本の道は、地図の上に刻まれました。

 けれど、私たちが彼から本当に受け取るべきなのは、完成した地図そのものだけではないはずです。

 知らないことを知りたいと思う心。

 分からないことから逃げずに学び続ける姿勢。

 学んだ知識を、実際の行動に変えていく勇気。

 そして、自分の可能性を、今の年齢や成績だけで決めつけないこと。

 伊能忠敬が五十歳から歩き始めたように、私たちにも、これから歩き始めるそれぞれの道があります。

 その道の先に何があるのかは、まだ分かりません。

 だからこそ、まず一歩を踏み出してみればいいのです。